東日本大震災とその後。 [日記]
3月11日に起きた、東日本大震災。
東北から離れた場所にある関東の我が家も、混乱しました。
私と夫はそれぞれの職場で勤務中。
長女は学校で下校寸前の時刻。
次女は保育園でちょうど午睡から目覚めるころだったといいます。
とにかく私の仕事は一年で一番の繁忙期で、仕事をこなすので精一杯という瞬間に起きました。
最初は揺れてる??というくらいだったのが、
どんどんひどくなり、長い長い揺れで座っていることができなくなりました。
その後、携帯でチェックした同僚から、
「宮城県、震度7!」との言葉。
親戚が仙台にたくさんいます。
自分が誕生した地で尋常ではないことが起きている。
親戚の無事と家族の無事が心配になった私は、こなしてもなくならない仕事に集中できないくらい取り乱していました。
それから何度も大きな揺れが続きます。
夫の携帯、母が来てくれている筈の自宅に電話をしても、一向につながりません。
不安のまま食堂のテレビを見に行くと、東北を襲う津波の映像が流れていました。
綺麗に整地された畑、家々を容赦なく襲う津波。
自然の力の下では、人間は本当になすすべがないものだということを思い知らされました。
それからどれくらいたったでしょうか。
何度もかけ続けた固定電話で、やっと母につながりました。
長女はいつもより遅くなりながらも、無事家に着いたこと。
家は多少食器が割れてしまったが、大きな被害もなく無事でいること。
「今日のくもんはどうするの~」と聞いてくる長女の声に安堵した私は、苦笑いをしながらも
「今日はいかなくていいから、家でおとなしくして待ってて。」と電話を切りました。
4時ごろには、保育園への連絡もつきました。
「出来るだけ早く迎えに来てください。」とのことでした。
夫ともメールがつながり無事を確認。
しかし急いで保育園にかけつけなければならない私に問題勃発!
電車が動いていませんでした。
タクシー乗り場もすごい行列。
諦めて、電車&徒歩で1時間かかる道を、パンプスを履きながら歩き出しました。
途中で運動靴を買おうと、店に入ろうとしましたが、地震の影響で臨時休業。
歩くしかないか・・・と1時間ほど歩いたときでした。
通り沿いに、自転車店を発見
「26インチ、ギアつき」という条件で無事自転車をゲット。
さっそく走り出します。
しかし距離が距離だけにつらい…アップダウンの多い道を何度もリタイアしそうになりながら、20㌔の道を飛ばしました。
保育園についたのは夜の7時ごろ。
娘に会えたことで本当にほっとしましたが、すでに足は筋肉痛で。
近所も停電していて、真っ暗な場所が数多くありました。
「帰宅難民」というものを、まさか自分が経験してしまうとは思いもしませんでした。
夫は5時間半かけて、歩いて帰ってきました。
私が「子供たちは私に任せて、どこかで休んでいて」というメールを何度も送っていたのですが、届かず歩き出してしまっていたのです。
電話は最後までつながらないし、メールはそんな感じだし、ソ○トバンクは・・・
その後、ニュースを見ていると、津波の被害、原発の被害など次々に明らかになってきました。
亡くなられた方、大きな被害を受けられた方が沢山いらっしゃって、本当に言葉がみつかりません。
仙台の親戚は3日後に全員の無事を確認できましたが、やはり生活は大変なようでした。
計画停電の実施、頻繁に起きる余震、満足に食材が手に入らない中で急な保育園の弁当持参と、3月は本当に必死でした。
長女も落ち着いて勉強、という雰囲気でもありませんでした。
次女も地震が怖くて先に一人で寝ることができなくなってしまいました。
親がこんなに慌てているのですから、無理もないことだと思います。
こんな状況で娘に不安を与えてしまう私は、母親としてまだまだ未熟です。
そんな風に毎日を送っている私のもとに、もうひとつ悲しい知らせが届きました。
一緒に研修生活を送った、同い年の友人が病気で亡くなってしまいました。
去年の秋、検査の数値が悪いと緊急入院。
きっと良くなると信じていたのに、あまりにも急でした。
彼の分まで、私も後悔しない人生を送ろうと思います。
そして震災以来、まとまった休みがとれたGW
マジックショーに誘われ、行ってきました。
久しぶりに笑った気がします。
娘がマジックのお手伝いをして、いただいてきたバルーンアート。
(ただ箱を持っていただけですが・・・)
いつも、どんなときも娘たちには不安を与えない母であり続けたい。
そう思ったこの春の出来事でした。
東北から離れた場所にある関東の我が家も、混乱しました。
私と夫はそれぞれの職場で勤務中。
長女は学校で下校寸前の時刻。
次女は保育園でちょうど午睡から目覚めるころだったといいます。
とにかく私の仕事は一年で一番の繁忙期で、仕事をこなすので精一杯という瞬間に起きました。
最初は揺れてる??というくらいだったのが、
どんどんひどくなり、長い長い揺れで座っていることができなくなりました。
その後、携帯でチェックした同僚から、
「宮城県、震度7!」との言葉。
親戚が仙台にたくさんいます。
自分が誕生した地で尋常ではないことが起きている。
親戚の無事と家族の無事が心配になった私は、こなしてもなくならない仕事に集中できないくらい取り乱していました。
それから何度も大きな揺れが続きます。
夫の携帯、母が来てくれている筈の自宅に電話をしても、一向につながりません。
不安のまま食堂のテレビを見に行くと、東北を襲う津波の映像が流れていました。
綺麗に整地された畑、家々を容赦なく襲う津波。
自然の力の下では、人間は本当になすすべがないものだということを思い知らされました。
それからどれくらいたったでしょうか。
何度もかけ続けた固定電話で、やっと母につながりました。
長女はいつもより遅くなりながらも、無事家に着いたこと。
家は多少食器が割れてしまったが、大きな被害もなく無事でいること。
「今日のくもんはどうするの~」と聞いてくる長女の声に安堵した私は、苦笑いをしながらも
「今日はいかなくていいから、家でおとなしくして待ってて。」と電話を切りました。
4時ごろには、保育園への連絡もつきました。
「出来るだけ早く迎えに来てください。」とのことでした。
夫ともメールがつながり無事を確認。
しかし急いで保育園にかけつけなければならない私に問題勃発!
電車が動いていませんでした。
タクシー乗り場もすごい行列。
諦めて、電車&徒歩で1時間かかる道を、パンプスを履きながら歩き出しました。
途中で運動靴を買おうと、店に入ろうとしましたが、地震の影響で臨時休業。
歩くしかないか・・・と1時間ほど歩いたときでした。
通り沿いに、自転車店を発見
「26インチ、ギアつき」という条件で無事自転車をゲット。
さっそく走り出します。
しかし距離が距離だけにつらい…アップダウンの多い道を何度もリタイアしそうになりながら、20㌔の道を飛ばしました。
保育園についたのは夜の7時ごろ。
娘に会えたことで本当にほっとしましたが、すでに足は筋肉痛で。
近所も停電していて、真っ暗な場所が数多くありました。
「帰宅難民」というものを、まさか自分が経験してしまうとは思いもしませんでした。
夫は5時間半かけて、歩いて帰ってきました。
私が「子供たちは私に任せて、どこかで休んでいて」というメールを何度も送っていたのですが、届かず歩き出してしまっていたのです。
電話は最後までつながらないし、メールはそんな感じだし、ソ○トバンクは・・・
その後、ニュースを見ていると、津波の被害、原発の被害など次々に明らかになってきました。
亡くなられた方、大きな被害を受けられた方が沢山いらっしゃって、本当に言葉がみつかりません。
仙台の親戚は3日後に全員の無事を確認できましたが、やはり生活は大変なようでした。
計画停電の実施、頻繁に起きる余震、満足に食材が手に入らない中で急な保育園の弁当持参と、3月は本当に必死でした。
長女も落ち着いて勉強、という雰囲気でもありませんでした。
次女も地震が怖くて先に一人で寝ることができなくなってしまいました。
親がこんなに慌てているのですから、無理もないことだと思います。
こんな状況で娘に不安を与えてしまう私は、母親としてまだまだ未熟です。
そんな風に毎日を送っている私のもとに、もうひとつ悲しい知らせが届きました。
一緒に研修生活を送った、同い年の友人が病気で亡くなってしまいました。
去年の秋、検査の数値が悪いと緊急入院。
きっと良くなると信じていたのに、あまりにも急でした。
彼の分まで、私も後悔しない人生を送ろうと思います。
そして震災以来、まとまった休みがとれたGW
マジックショーに誘われ、行ってきました。
久しぶりに笑った気がします。
娘がマジックのお手伝いをして、いただいてきたバルーンアート。
(ただ箱を持っていただけですが・・・)
いつも、どんなときも娘たちには不安を与えない母であり続けたい。
そう思ったこの春の出来事でした。
ホントに何が起きたのかと目を疑いました
主人の実家が仙台なので ホント心配しました
いりなさんの所もご親戚がたくさんいらっしゃるとの事で
さぞかしご心配だったでしょうね
お見舞い申し上げます
被災地の子供でなくとも
子供心に怖さをうえつけていった地震
早く元通りになるといいですね
私は 公衆電話から連絡をし、
それでも子供と行き違いになりましたが
子供は2時間 歩いて帰ってきたそうです
次からは こうすると決めておきましたが
もうこんな大災害にならないよう
心から祈ってます
by わーこ (2011-05-08 21:16)
ご親戚ご家族がご無事でなによりでしたね。
しかし被災された方々にはかける言葉も見つからない、幸い被害の少ない北関東の私のうちや地震の直接の被害がなかった地域の人々にも消えることのない思いを心に残した大震災。
身近な人たちの大切さが改めて大きく感じられた出来事です。
by ぱむ (2011-05-09 10:13)
我が家は千葉県ですが古い建物の5階という事で
揺れが凄く、部屋の中はぐちゃぐちゃになりました・・・(>_<)
by ユーフォ (2011-05-09 18:03)
わーこさん
ありがとうございます。
公衆電話、都内ではすごい行列で使えませんでした。
自宅近くまできてから、公衆電話を見つけてかけましたが10円戻ってきてびっくり。
息子さんもたくさん歩いて大変でしたね。
もうこんなことが起きないよう祈るばかりです。
by いりな (2011-05-14 17:07)
ぱむさん
ありがとうございます。
北関東だと、落ち着かないですよね…。
地震、津波の被害だけでも甚大なのに、放射能の影響が今も続いていて一日も早く収束してほしいと思います。
最近地震の夢ばかり見ますが、「実際寝ている間にも揺れている?」のかもしれません。
by いりな (2011-05-14 17:11)
ユーフォさん
ありがとうございます。
高層階の揺れ方は怖いですよね。
たまたま出先でビルの5階にいたときに余震があって、ゆらゆらして怖い思いをしました
我が家も片付けるのが大変でしたよ…。
by いりな (2011-05-14 17:14)